
【海苔のはなし】vol.3 海苔の歴史(明治~現代編)
こんにちは、山本海苔店の山本です。
今回で海苔の歴史のお話は最終回です。
江戸以降、海苔はどう発展していったのか!?小話をはさみながら説明していきます。
- ●海苔は縁起がよい「運草」
前回お話した通り、海苔養殖は江戸時代から始まりました。
しかし海苔のライフサイクルがわからなかったため、タネ付け作業はカンや経験だけを頼りに行われていました。
「昨年はこの辺にヒビをたてたら海苔が採れたから、今年もこの辺かなー」という感じです。
たくさん採れる年もあれば、全く採れない年もあり、生産高はとても不安定。
漁師さんたちをはじめ、海苔好きな人は収穫の時ドキドキしながら過ごしていたのでしょうね・・。
つまり運がよければ海苔が採れるという事で長い間海苔は「運草(うんぐさ)」とも呼ばれ、縁起物として扱われてきました。
今でもおめでたいギフトに重宝されています。
お年賀で贈るなら「運草で、あなたに今年も運が訪れますように」という願いを込めて贈るのです。
また神饌(神社のお供え)などでも多く利用されているのはそんな理由からです。
- ●女神あらわる
海苔は冬に成長するという事は分かっていたのですが、「海苔が夏の間どこにいるか」は最大の謎でした。
昭和24年、イギリスのドリュー女史が海苔のライフサイクルを解明。
特に「海苔が夏の間どこにいるか」をついに見つけ出したのです。
さて、海苔は夏の間どこにいるのでしょう・・・なんと、海苔は貝の中にいたのです!
まさか貝の中とは、それではなかなか見つからないはずですね。
ドリュー女史はまさに海苔産業界の女神なのです。
●海苔養殖の現在
その後研究が進み、人工的に貝の中に海苔の胞子をつける事に成功したことで生産枚数は倍増しました。
生産枚数は増えましたが、依然「運草」である事には変わりありません。
海苔養殖というのは今でも、その「海苔胞子入りの貝の上に網を張る」というだけの天然に近い養殖です。
従って、海苔の胞子が貝から出て網に付くタイミングで、海が荒れていたりすると、網に付かなかったり、
たとえしっかり付いたとしても、健全に育たないかもしれないからです。
毎年漁師さんたちは、技術が進んだ現代でも海の状態や天候など、自然とにらっめこしながら海苔の成長を管理しているのです。
さらに昭和45年に「冷凍網」という技術が実用化され、なんだかんだで昭和48年に一気に100億枚達成しました。
一気に、江戸~昭和~現代まで話をしてしまいましたが、その間もいろいろありました。
ここからは弊社(山本海苔店)が海苔の歴史において革命を起こした自慢話も入ります。
- ●味附海苔あらわる。~明治2年のお話~
実は弊社(山本海苔店)は味附海苔の元祖。
それは明治2年のお話。味附海苔の誕生には明治天皇と山岡鉄舟が関わっているのです。
山岡鉄舟は、幕末維新の英傑。
戊辰戦争時、江戸に迫る官軍陣地を一人突破し、西郷隆盛に勝海舟との会談を直談判。
西郷をして「命も、名も、金もいらぬ、始末に困る人」と言わしめた人物。
鉄舟と山本海苔店の二代目德治郎とは、千葉道場の剣友でした。
明治2年、二代目德治郎は宮中から明治天皇の京都還幸の際の東京土産の下命を受けました。
これは、鉄舟の口添えがあったのではないかと言われております。
そして二代目はそのとき海苔に味をつけることを創案し、生まれたのが日本で初めての味附海苔だったのです。
いつも何気なく食べている味附海苔ですが『明治天皇』『山岡鉄舟』という
歴史上の超有名な2人と『山本徳治郎(2代目)』の3人の関わりがあったと言われております。
- ●海苔のサイズきまる
実は海苔のサイズを決めたのも弊社(山本海苔店)と言われています。
江戸時代に浅草和紙の紙漉きを応用して、紙状になった事を前回お話しました。
とはいえ、製造者によって、なんとなく四角なだけで、サイズはマチマチ。
それを統一しようと動き始めたのが弊社3代目山本德治郎でした。
その後、長い年月をかけ昭和40年代に海苔は19㎝×21㎝のやや長方形に統一。
正方形だと思っていたそこのあなた、実は微妙に縦横違いますので今度食べる時には要チェックです。
海苔の歴史3回にわけてお届けしましたがいかがでしたでしょうか。
次回からは海苔のうんちくや小話を語っていけたらと思っております。
それではお楽しみに。
文:おにぎり応援大使・山本貴大 (山本海苔店 http://www.yamamoto-noriten.co.jp)